多事雑論017 歴史 ~昔も今も⑤~真田「幸村」

従来「真田幸村」として知られる人物の本名は「真田信繁」であり、幸村というのは後世の創作である――大河ドラマ『真田丸』で大量の関連本が出回って以降、そんな認識が一般にも広まっているようだ。
真田幸村という名はクールでカッコイイ。信繁が幸村と名乗った可能性は、本当に無いのだろうか。

まずは通説。
・信繁が幸村と改名したことを証明する客観的な資料が存在しない。大坂城入城後に書かれた最後の書簡にも、彼は「信繁」と署名している。
 したがって信繁が幸村と改名したとは考えられない。
・真田幸村という名は江戸時代以降の講談や小説により広まった。元になったのは『難波戦記』という軍記物語、これが幸村名の初出である。
 難波戦記が幸村という名を創作したのは、真田の活躍を描くことにつき徳川幕府や松代藩に配慮してのものと思われる。

通説に対して、作家の井沢元彦氏は『逆説の日本史・別巻5』で以下のように述べておられる。
・真田代々の通字は「幸」。信繁の兄・真田信幸は徳川方に就いた際、徳川への忠誠を示すため「幸」の字を捨て「信之」と改名した。
 兄が捨てた幸の字を弟信繁が拾い、幸の字を用いた名に改名したことは、大いに考えられる。
・現代なら記者会見でもやって発表できるだろうが、マスコミもインターネットもない当時は改名の事実が内々にしか広まらなかった。
 だから書簡の署名も「信繁」のままとなっている。

まさに井沢氏の言う通り!なので私は井沢氏とは別の論点から考察を。…上に出てくる『難波戦記』とは、そもそもどんな書物なのだろうか。
・疑問①:信憑性の低い書物というのは本当か。徳川に配慮ということは、「民間人の手による娯楽小説の類」なのか。
・疑問②:幸村という名が創作だというなら、「他の登場人物の名はどうなっているのか」。

そこで、難波戦記について調べてみた。大阪市立図書館ホームページに各章のタイトルの記載があるのを見つけた。
・答え①:難波戦記は万年頼方(京都所司代・板倉家の門客)と二階堂行憲(後の江戸幕府老中・阿部忠秋の家臣)の2人による共同執筆。
     成立は1672年とみられる。大坂の陣の発端から結末までを詳しく描いた軍記物語。
・答え②:各章のタイトルには「豊臣秀頼・片桐且元・伊達秀宗・木村重成・後藤基次・長曾我部盛親」など複数の登場人物の名が見える。
     つまり、登場人物は全て実名で描かれている。

いかがだろうか。まず、難波戦記は娯楽小説などではなく、幕府に属する人物によるオフィシャルな書物であった。また、全ての登場人物を実名で描きながら信繁だけに幸村という変名を捻り出すとは考えられない。それなら全員を変名にするはずである。少なくとも、難波戦記の執筆者は真田幸村を本名と認識していたのだろう。ということは、この書物で唐突に幸村という名が飛び出したのではなく、この書物の成立までには既に一部の人々の間で幸村という名が認知されていたことになる。
これらの事柄を総合すると、信繁が大坂城入城の前後に幸村と改名していた可能性は十分にあると結論してよいだろう。

私の妹は、結婚して名字が変わった後も、仕事上は旧姓の「田口」で通していた。
実際、名前やアドレスが変わると大変だ。知人や関係者に通知したり、名刺を作り直したり…昔も今も、「周知」は大変な労力を要することなのである。
それにしても、大河ドラマで出回った真田本を数冊読んだが、どの本の著者も「難波戦記=フィクション」と頭から決めつけ、この書物に対して読んだり調べたりした形跡が全くない。少なくとも、上に示した論点に言及した本は一冊もなかった。彼らは幸村名=創作名と結論づけたいわけだから、そこはスルーでよかったのだろう。
結論ありきで自説に都合の良い情報のみを取り上げる。それ以外の情報は黙殺し、大勢に追従する。そして「通説」が形成されていく。そこには歴史を身近に感じる努力も豊かな想像力もない。学会など、所詮こんなもんなのである。